Tuesday, February 19, 2019

裸足で自己ベスト更新!第53回青梅マラソン大会レポート (Barefoot Race Report: Ohme 30 K Road Race 2019) 

Feb. 17, 2019

2019年2月17日(日)第53回青梅マラソン裸足で出走2:27:22 (Gross)/2:24:31 (Net)のタイムでフィニッシュ。自己ベストを更新した。この大会で全区間を裸足で走破することに挑んだのは今回が初めて。初挑戦で目標を達成し、自己ベスト更新のおまけまで付いた。満足している。以下にレースの様子を記す。市民ランナーの皆さんの参考になればと思う。

<レース前夜>
福生のホテルに前泊。当日朝をゆとりをもって迎えるのが狙い。前夜は福生の名店「福生的中華食堂50(フィフティ)」でスープ炒飯に青梗菜と湯葉の炒め物を食す。また駅前の西友で活けホッキの刺身を買い求め、納豆と白米と共に食した。炭水化物、ビタミン、ミネラルの十分な摂取が狙い。揚げ物とアルコールは避けること、食べ過ぎないことに2点に留意した。

<レース当日>
朝食はホテルで提供されたお結びと味噌汁に加え、前夜スーパーで買った八朔とバナナ、それに活けホッキの刺身を食べた。朝食がレース中のエネルギーに直接なるわけではないが、覚醒を促しやる気を創出するのには役立つ。消化に負担とならないようよく噛み、適量を心がけた。コーヒーは飲まない。利尿作用が働き脱水が促進されるからだ。

9時半にJRは河辺駅でラン友と待ち合わせ、受付のある河辺小学校へ向かった。大会Tシャツとゼッケンを受け取ると、選手控え室のある総合体育館でスタートの時刻を待った。

スタート時刻の20分間前、体育館前でラン友と記念撮影を行い、スタート地点へ向かう。スタートゾーンは過去の成績によって前から順に区分けされている。5000番台のゾーンへ辿り着くと、そのゾーンからスタートするラン友のHさんとIさんに別れを告げて、自身のゼッケン3000番台のゾーンへさらに歩を進める。自身のゾーンに到着する頃には、スタートまで5分を切ろうとしていた。既にトイレは済ませた後だったが、ゾーンの左横に簡易トイレがあったので、念のため最後の用足しをした。出走間際だったため、全く並ぶことなく用を足せた。

8年前、初めてこの大会に出場したときには、スタートゾーンが遥か後方で、オフィシャルのスタートラインに辿り着くまでに、10分近くかかった記憶がある。今年は、オフィシャルスタートラインの位置を示す巨大な標識が、自身の立つ位置から容易に見ることができた。回を重ねるごとにタイムを縮め、ついにここまで辿り着いたかと思うと感慨ひとしおだった。

スタート数分前、シドニー五輪の金メダリスト高橋尚子さんの挨拶とランニングアドバイスがあり、次いでアテネ五輪の金メダリスト野口みずきさんの打ち鳴らす号砲でレースはスタートした。

号砲の直後しばらくは、のろのろ歩行が続く。しかしほどなくして集団が解れ始めると、次第に人の流れが速くなり3分もせぬまにゲストスターターの立つ壇上の麓へと近づくことができた。下から見上げる野口さんに向かって彼女の名を叫ぶ。気がついた野口さんが私の姿を見て「わぁ、裸足~!」と言った。ついで隣にいた高橋尚子選手が「足元気をつけて~」と言うのが聞こえた。稀代のメダリスト二人に声を掛けてもらい天にも昇る高揚感に包まれながらスタート地点のある東青梅の駅前を後にした。

スタートから1~2㌔は平坦な道が続く。その後5㌔付近の宮ノ平駅にかけてコースはゆるやかに上って行く。スタート時点の寒さ対策で、防寒装備をしていたランナーの中には、この辺からアームウォーマーやネックウォーマーを脱ぐ人が多い。混雑によってスピードが一時的に遅くなるクランク部分では、ランナーから出る熱気が道路に充満して気温がわずかに上昇するのが感じられた。

宮ノ平駅を過ぎると今度はしばらく下りが続く。この区間は復路では上りになる部分だ。初めて走った大会では後半ここで足が攣って失速した。持久力が格段に向上した今は、逆にペース配分を間違えで失速するランナーをごぼう抜きできる楽しみな区間だ。

300メートル近い下りが終わると、コースは再び上りに転じ、その後8㌔過ぎで再度下り始める。この下りは宮ノ平駅過ぎの下りと比べて遥かに長く勾配も急だ。これがかの有名な復路屈指の難所、二俣尾の坂だ。往路では、前半の混雑でロスしたタイムを唯一縮められる貴重な区間だ。先頭集団が未だ折り返しておらず反対車線が空いているため、中央線をはみ出して追い越しをかけるランナーが多い。私もその一人だった。

9㌔過ぎで下りが終わると、後は基本的に折り返し地点まではずっと上りだ。左に高い木立が現れ日差しが遮られると、日陰の気温が一気に下がるのが感じられた。やがて目の前に10㌔の計測地点が現れる。センサーを覆う黒いラバーシートの上を次々とランナーが走り過ぎ、その都度選手の通過を知らせるピピッ、ピピッというアラーム音が山間に木霊した。

10㌔計測地点の先には、市民ランナーの大先輩で、陸連の大会ガイドを務めるTさんが、中央線の上で選手を誘導していた。大きな声でTさんの名前を叫ぶと、満面の笑みとピースサインで応えてくれた。

その後間もなく先導の白バイ隊に導かれてトップランナーが折り返してきた。第51回大会の優勝者ケニア出身のチェボティビン・エゼキエル選手だ。長いストライドを伸びやかに回転させ稲妻のように駆け抜けるエゼキエル選手の背後の山並みが、一瞬アフリカの赤土に広がるサバンナに錯覚された。。。

第2集団が現れたのは、その後1分以上経った後のことだった。始めはまばらだった折り返しのランナーの数は、その後時間が経つごとに徐々に増え、やがてそれは、山の麓へ向かって押し寄せる巨大な土石流のような人の奔流となった。

12㌔付近の御嶽駅前で、チアリーダーのCがカメラを手に今や遅しと私の到着を待っていた。前日入念な打ち合わせをしてあったので、駅前の中華料理屋の向かいで待機するCの姿は50㍍以上手前から確認することができた。カメラマンの期待に応えてスピードを落とし、笑顔とガッツポーズで声援に応えた。

折り返しまで1.5㌔に迫るころ、勤め先の受講生のFさんが必死の形相で駆け下りてくるのが見えた。私の着ていた虎柄のワンピースのおかげFさんも坂を登り来る私の姿が見えたらしい。擦れ違いざまに声を掛け合い、ハイタッチで互いの健闘を祈願しあった。

Fさんの必死の走りは、私に新たな活力を与えた。私はギアを一段シフトすると、トレーニングの中で数え切れないほど練習した要領で歩幅を狭めると、着地点をやや手前にし、まな板の上で葱を刻むような軽快な足取りでトントンと坂を駆け上がり、勾配がキツくなるにつれて失速するランナーの間を縫うようにして順位を上げた。

やがて14.5㌔の川井駅周辺の応援スポットに到着すると、割れんばかりの声援に包まれながら、折り返し地点へ通じる最後の坂へと進んでいった。

折り返し地点へ辿り着いたのは、前年よりも約3分早い1時間16分台だった。無理してペースを上げたつもりが全く無かったので、この一年で持久力が格段に向上していることに自信を得た。

一度折り返すと、私はさらにギアを一段シフトして、下りを利用して一気に加速した。途中道路が狭いため、思うように前のランナーを追い越せないことに苛立ちが募ったが、その分後半に余力を残せると前向きに捉えるようにした。

復路で18㌔地点となるJR御嶽駅前で、再びチアリーダーのCを発見し、構えられたカメラに向かって精一杯の愛嬌をふりまいた。

20㌔地点の手前で名物のゆずまんじゅうがふるまわれた。21㌔付近の二俣尾の坂を攻めるのに必要なやる気を創出するために、私は迷わず一つを手に取ると、口に放り込んだ。ゆずあんの甘さが口に広がり、最後の10㌔を力強く走りきる意欲が、内側から漲るのが感じられた。

やがて二俣尾の坂が目の前に現れた。坂の中腹では名物のロッキーのテーマが流れていた。以前はここで無理をして結果的に後半失速していた自分だが、今では戦略的な走りに徹している。歩幅を再び小さく取り、重心のやや手前に着地するように心がけ、足の筋肉の力ではなく、腱の反発を利用して効率よく坂を登った。従って、坂の頂上へ到達しても、心拍数の極端な上昇が無く、直ちにギアをシフトして、下りを猛スピードで加速することができた。上りで私を抜き去ったランナーも、ここで再度私に抜かれることなる。しかし上りでエネルギーを使った足に、追う力は既に残っていない。・・・。

ついに宮ノ平の頂上を極めて最後の給水を終えた私は、最後の下りと、ゴールへ通じる市街地のフラットな区間を残すのみとなった。体力的に十分な余力を残して25㌔地点を通過できたことは当初の計画通りだったが、一つ大きな問題が生じていた。足裏のダメージが重なって知覚過敏の症状が現れていたのだ。こうした場合、取れる有効な手段の一つは中央線のペイントの上を走ることだ。路面状況が必ずしも理想的とは言えない最後の5㌔で、未塗装部分を走り続けた場合、知覚過敏が進行して、どこかのタイミングで意欲がポキっと音を立てて折れかねない。それだけはどうしても避けたかった。中央線の近くには、陸連の大会ガイドの方々が立っていて中央線をはみ出させないように誘導をしている。私は必死の形相で走り、足裏へのダメージを最小限にするため意図的に中央線の上を走っていることをアピールした。幸いなことに、殆どの大会ガイドがそんな私の状況を酌んでくれて、般若の形相で私が加速してくるのを見ると、一歩下がって道を譲ってくれるのだった。しかし一方で、靴を履いた市民ランナーが中央線の上を、訳もなくだらだらと走るのにはいささか閉口した。そうしたランナーが目の前に現れるたびに、私は一度中央線から車線へ蛇行し、遅いランナーを抜き去った後、再び中央線の上へ戻り加速し、再び同じようなランナーが居ると、再度またそのランナーを迂回し前に出てから中央線に戻るという無駄な動きを余儀なくされた。私の足裏はその都度大きなダメージを受け、残り2㌔の市街地へ戻ってくる頃には、往路では全く痛みを感じることの無かった青梅駅前のアスファルト道路が、針のむしろに感じられるのだった。それでもゴールへ右折する最後の交差点が視界に入ると、歓喜の思いが胸を突き上げ、それまで感じていた痛みが、ウソのように吹き飛んだ。いつもなら交差点でカメラを構えて待っているチアリーダーのCの姿を探したが見つからなかった。交差点に設置されたオフィシャルタイマーが27分に切り替わるのが見えた。このままスパートすれば、Gross27分台でフィニッシュできる。昨年ネットで27分台を記録して自己ベストを更新した自分は、Gross/Net共にほぼ確実に自己ベストを再更新する予見の中、最後の力を振り絞ってホームストレッチを駆け下った。フィニッシュラインを切った時、時計は2時間27分22秒を示していた。後でわかったが、チアリーダーのCは、私のフィニッシュタイムが予想を上回った為に、御嶽駅から河辺駅に戻るのが間に合わなかったそうだ。それはカメラマンには残念だったが、選手からすれば嬉しい誤算となった。

フィニッシュ直後興奮と感動で何も感じることのできなかった自分だが、1分もすると、それまで感じなかった激痛を足裏に感じて、歩くことも難儀になった。路面の劣悪な急坂を猛スピードで加速したダメージは相当だったのだ。

完走した選手を向かいいれるテント小屋の前では、コース中に私を見かけた市民ランナーが、次々と声を掛けてくれた。その中には毎年お見かけするバットマンやショッカーの姿もあった。かつては自分自身がスゴいなぁと感心していた仮装ランナーの皆さんから、そうして特別な声を掛けられる、原始人コスチュームと裸足走のマリアージュが創出する感興の凄まじさに、あらためて驚いた。

その日は、河辺駅前の魚民で、無事完走したラン友達と寒空の中熱心に応援してくれたチアリーダーのCと共に祝杯をあげ、ランナー談義に花を咲かせながら、互いの健闘を称えあった。

今この瞬間も、触れば飛び上がるほど足裏がひりひりするが、それも明日になればおさまるだろう。館山若潮マラソンを裸足で完走した時も、直後足裏はそれまで見たことの無い巨大な血豆が2個もできて靴を履くのも難儀だったが、痛いのはその日だけだった。翌日は何も無かったようにスニーカーが履けたし、走ることもできた。人間の耐久力と回復力は、私達が想像するより遥かに偉大なのである。

次のレースは3月24日の佐倉朝日健康マラソン。劣悪を極める田舎のコンクリート道路を、全区間裸足で走破するのが目標だ。


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